其の一  宗箇松と宗箇山



一 宗箇松のいわれ

宗箇松は、元和5(1619)年、広島藩主となった浅野長晟に従って入国した武将茶人、上田宗箇(1563〜1650年)が植えたものです。

広島に入国した宗箇は、広島城本丸、縮景園そして上田家上屋敷の三カ所に茶室・露地を設け、この三つの露地の借景として、広島城から24キロメートル離れた北西の山(新庄山)の山頂に巨大な松を植えました。

この松が「宗箇松」と呼ばれ、松が植えられた山は「宗箇山」として広島の人たちに親しまれるようになりました。この山は、その由来から「植松山」とも称されています。


二 宗箇松の歴史

宗箇山の頂に植えられた宗箇松は、広島の景勝の一つとして人々に親しまれました。

ところで、宗箇によって植えられた宗箇松は、彼が広島に移り住む前の紀州(和歌山)にもありました。江戸時代の画家、土佐光芳(1700〜1772年)によって描かれた「紀州・和歌山の宗箇松」と「芸州・広島の宗箇松」の対幅の絵が残っています。

また、江戸時代の代表的な地誌である芸藩通史には、「新庄村山上にあり、大三圍許(大きさが大人3人で抱えるほど)、高四丈許(高さが12メートルほど)、上田宗箇、栽る所といふ、其居第よりこれを望に、遙かに園樹の上に出ず、今この山を植松山と呼ぶ、宗箇、紀州和歌山に在し時も孤松を山嶺にうえて、国中の観に供へしといふ、祗南海及び諸名流の詩文あり、芸文部に載す」と紹介されています。

上田宗箇が植えた初代宗箇松は、明治維新後に落雷を受けて枯死してしまいました。
広島では、これを惜しむ人たちによって二代目が植えられましたが、戦時中に敵機の
目標になるとして軍により伐採されました。そして、昭和36(1961)年、三代目の松
が植えられましたが、最近になって松食い虫によって枯れてしまっていることが分か
りました。

平成10(1998)年になって、地元の人たちを中心に、宗箇松を復元しようという話が
持ち上がり、地元の人々や幅広い関係者の努力により、平成10(1998)年11月29
日、新しい四代目の宗箇松が植えられました。


枯死した三代目宗箇松